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昭和九生まれの父。
田舎の農家に
六人兄弟の長男として生まれ育ち、
芋粥や粟を食べ、
牛や馬をひきながら中学を終えた父にとり
幼い妹弟たちを食べさせるために働くことに
なんの疑問も持たなかったことだろう。
それが当たり前だったわずか数十年前の日本。
自分が通うことを想像することさえできなかった高等学校へ
幼かった弟たちを進学させ
ひたすら働いた。
一番末の妹を
ようやく卒業させた年には
父は30歳をとうに超えていたはずだ。
薄紅色の染井吉野が
そろそろと舞い始めた「辰夫神社」の境内で
この親子ほども歳の離れた妹を
実直な面立ちをした青年の許に嫁がせた日の父は
満足げで
誇らしげで
そして
「父親」の顔をしていた。
泣き喚いて
姉妹でたったひとり出席した
おかっぱ頭の私は
大好きだった若く美しいこの「叔母」の白無垢姿と
くっきりとその頬に刻まれた片えくぼを
春風にくるくると舞い上がる
桜色の花びらごしに
呆けたように見つめていた。
久月さんの小金井の桜6 – 写真共有サービス 「写真部」 byGMO
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あれっ、ねこもりやさん。ここのところ更新がとまっているようですけど、大丈夫ですか? ご病気などでなければ良いのですが。あ、更新するようにプレッシャーかけているわけではないのですけど。
ウチの父は、昭和10年です。
子供の頃、花見と言えば、辰尾神社でした。
夏には、セミ取り。秋には、ドングリ。
冬は、うーん・・・初詣でどんど焼き。
かつて、本殿の西の薄暗い空間が、
小さな森のようになっていて、
そこにミミズク(ふくろうの小さいヤツ)
がいたのご存知でしたか?
セミ取りの最中、
「今日もおるかな?お、おるおる。」
お宮だけに、まさに神聖な空間のような
感じがしたのをよく記憶しています。
私のかつての遊び場、
辰尾神社でそんな出来事が
おありだったんですね。
想像しただけで、涙が出ます。
かつての私の遊び場、辰尾神社。
いろんな人たち、いろんな光景を見ているのですね。
ありがとうございました。
あら!昭和9年生まれなんだ?
ウチの父は昭和7年よ、そして母が昭和14年です。
疎開もあって、大変だった話は昔よく聞かされましたわ。
苦労が絶えない時代だったでしょうけれど、それだけ人間的に生き生きとしてますよね、現代の荒んだ顔つきの若者とは
大違い・・・
こんばんは。コメントありがとうございます。
この記事と関係なくてごめんなさい。ここにちょっとお邪魔します。
実は、ねこもりやさん助けて?!って昨日も言いにきたんだけど、ねこもりやさん、ご飯食べられなくなっちゃうぐらい心配しちゃうんじゃないかと思って・・・夜な夜ないい情報はないかと、さぐりに来てました(^^;
そして、勝手に勇気をもらって帰りましたよ!!
ありがとうございます。
現実は厳しい?です。福祉の人の守秘義務もあるので、ブログに詳しくかけないけれど、後もう一歩がんばります!
くろんぼの、ろんぼちゃんも、応援してくれてるみたいです(^-^)!
昭和9年生まれ・・・
私の父は昭和6年、母は13年生まれです。
案外、ねこもりやさんと私、年が近いのかも・・・と思いながら読ませていただきました。
うちの父も5人兄弟の長男。
戦争で何もかも焼けてしまった、と言う話を聞いたことがあります。母は13人兄弟の末っ子で、父親を早くに亡くしていたので上の兄弟たちが苦労して高校を出してくれたようです。
ちょっと前の日本では、こんなことが当たり前だったのかもしれませんね。
お父さん、感無量だっただろうねぇ?w
自分が苦労した分まで、弟や妹に幸せになって欲しかっただろうねぇ?^^
たぶん、その想いもちゃんとむくわれたのかな^^b
ほんと、いいお父さんだねぇ?^^ノ